霞が関ビルディング誕生のきっかけは、三井不動産の担当者の心に芽生えた「都市再開発の理想を追い求めたい」という欲求でした。再開発のために統合された約1万6,300m2に及ぶ都心の敷地を前に、採光がよくフロアが広々としたビル居住環境と、周囲に緑や広場のある都市環境を、この場所で実現したいという想いが湧き起こったのです。
当時の日本の建築基準法では、建物の高さは原則として31mに制限されていました。この高さでビルを建てると、建物は広大な敷地いっぱいに広がらざるを得ません。それでは周囲に空地が取れず、都市の過密や交通の混乱を軽減することはできないでしょう。理想の都市環境を実現するためには、まず高さ31mの常識を打破すべきではないか。そのためには、建築基準法の特例を認めてもらうことが必要でした。
当時は建築界においても従来の剛構造にかわって柔構造理論が研究されており、大型コンピュータの出現をはじめ材料、計測機器の進歩もあって、この新しい理論でのビル建設が可能になりました。三井不動産では、設計会社施工会社、都市計画や構造・建築の専門家を招聘し1963年(昭和38)に改正された新しい建築基準法にもとづいて、周囲に約1万m2のオープンスペースをもつ、高さ約147m・地上36階の建物を計画しました。これは道路用地などをのぞくと、約70%を超える空地率になります。
計画は、当時の建設省から周辺環境改善に寄与するものとして認められ、1964年(昭和39)8月、「東京都市計画霞ケ関三丁目特定街区」の指定を受けることができました。理想実現への最初の一歩が始まったのです。それからさらに5年、発端である1960年(昭和35)から足かけ8年の歳月を経て、霞が関ビルディングは完成します。
都心部に超高層ビルを建設し、足元のオープンスペースを緑の広場として人々に開放し、地域との共生を図る。これが三井不動産の霞が関ビルディング建設に関する基本的な考え方でした。高さを競うことではなく、超高層によってもたらされる美しく潤いのある都市環境、都市に生きる人々の豊かな暮らしを創造する。この考え方は、ふたつの大きな流れとなって、三井不動産・三井不動産レジデンシャルが手がけるその後の都市開発に積極的に生かされてゆきます。流れのひとつは、霞が関ビルディングを範とする既成市街地再開発。密集した市街地を、超高層化によって緑豊かな潤いのあるまちに変えていきます。そしてもうひとつは、芝浦、豊洲など、おもに都心湾岸エリアで行われている大規模開発です。湾岸エリアはその多くが近代以降の埋立によってできた新しい土地であり、おもに倉庫などに使われていて、いわば白紙の上に理想のまちを描くことができます。三井不動産・三井不動産レジデンシャルは、手を携えてこのふたつの大きな流れをさらに推し進め、人が心地よく暮らせる、よりよい都市環境を創造していきます。 |